紙 智子 参議院議員
「国会かけある記」
「ああ、またこの二月の月かきた、ほんとうにこの二月とゆ月か、いやな月こいをいパいになきたい、どこにいてもなかれない、あーてもラチオてしこすたしかる、あーなみたかてる、めかねかくもる」(原文)これは、小林多喜二の母セキさんが亡くなった後、遺品の中から見つかった紙片に書かれていたといいます。多喜二に手紙を書きたい一心で字を覚え、たどたどしい字で書かれています。毎年2月になると、わが子への断ちがたい思いがよみがえる母親の言葉は、誰の胸をも打たずにはいられません。
2月20日は多喜二が治安維持法下で特高警察によって命を奪われてから88周年です。「杉並・中野・渋谷第33回多喜二祭」が、コロナ対策を取りながら開催されました。何を話すか悩みに悩んで、私は、多喜二の作品やその生き方に触れ、何を受け継ぐのか話しました。
亡くなった夫から、多喜二の母セキさんを訪ね、入党をすすめた経験を聞き、驚いたことがありました。「こんなばあさんが入って若い人が元気になるならいいよ」と、申込書に「小林セキ」と名前だけ書いて宙を仰ぎ「天国に行ったらあんちゃんなんて言うかな」と言ってフッと微笑んだといいます。
「多喜二が命がけで守った党に入ることで、すこしでも近づけるように思ったのかもしれない」。今、多喜二が生きていたら、きっと現在を迫力満点に書いたに違いない。命がけでつないできた多喜二の挑戦を、いまこそ成し遂げるときです。
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