紙 智子 参議院議員
「国会かけある記」
今年2月に亡くなられた児玉健次さん(元衆議院議員)の妻である照世さんから「児玉の書いたものを整理していたら、いくつかの文書が見つかった。良かったらもらっていただけないかしら」と電話がありました。
コロナ禍でお見舞いに行けず、亡くなったときもお別れできず、気になっていました。照世さんがコロナワクチン接種を終えたと聞き訪ねました。
文書のなかに、児玉さんが教員になり赴任した北見柏陽高校の生徒会誌「かしわ」(1969年3月号)に寄せた児玉さんの「集団疎開のこと」という文章がありました。小学生の頃、父親の職業で満州から東京、広島へと移転し5つの小学校に通ったこと。「集団疎開の思い出はいつも切実な空腹感だった」こと。そして8月6日、広島に原子爆弾が投下されたとき「夕方駅に着いた汽車から、皮膚が焼けただれ破れた下着のようになった数人の男女が下車し、その中に中島国民学校の先生がいて学校はなくなった。中島本町から吉島羽衣町にかけて何も残っていないと報告し、数日後に亡くなった」と。8月15日の敗戦の知らせで泣いた生徒は少なかったが、20日に原爆で死んだ家族の名簿が発表されたとき、疎開していた自分を除いて他の全員が広島市在住の肉親を失って泣いた。『みんなにすまない』と本気で思ったなど。児玉健次さんが憲法と日本共産党の綱領を指針に政治変革に生涯をかけた原点を痛感しました。いのち最優先の政治への転換を誓う。